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(1850-1904)パトリック・ラフカディオ・ハーン。米国から日本に帰化した著述家。アイルランド出身(アングロ・アイリッシュ)の軍医であった父とギリシャ人の母を持つ。ギリシャのイオニア諸島で生まれるが、幼くして両親は離別。2歳の時にアイルランドへ移住する。19歳で単身アメリカへ渡り職を転々としたが、24歳の時に新聞記者となると、彼の文章は次第に高い評価を得るようになる。そして、数々の雑誌や自費出版の本などを手がけた後、紀行文を書くために日本に赴き、英語教師として文壇に立つことになった。46歳の時に帰化願いが受理されて「小泉八雲(こいずみやくも)」と改名。彼が日本で手がけた作品は以下の通り。
1894年(44歳)「見知らぬ日本の面影(全2巻)」ホートン・ミフリン出版
1895年(45歳)「東の国から」ホートン・ミフリン社及びリバーサイド・プレス社
1896年(46歳)「心」ホートン・ミフリン社及びリバーサイド・プレス社
1897年(47歳)「仏の畑の落穂」ホートン・ミフリン社及びリバーサイド・プレス社
1898年(48歳)「異国情緒と回顧」リトル・ブラウン社
1899年(49歳)「霊の日本」リトル・ブラウン社
1900年(50歳)「影」リトル・ブラウン社
1901年(51歳)「日本雑録」リトル・ブラウン社
1902年(52歳)「畳董」マクミラン社
1904年(53歳)「怪談」ホートン・ミフリン社/「日本〜ひとつの試論」マクミラン社
文筆者としてのハーンが残した仕事は、新聞記事から雑文、(フランス文学の)翻訳など多岐に渡るが、彼が後年最も力を注いだのは、「創作再話」であった。それらは既にアメリカ時代に始まり、日本に来て更に積極的に話の収集に努めた。彼は本昔から伝わる日本の話を集めては、再話文学として発表し続けた。そうした活動によって、今日の「雪女」や「浦島太郎」「耳なし芳一」などの小話が文学として花開くことになったのである。
ハーンが日本という国にこだわったのは、彼の故郷と通ずる島国の暮らしと、そこに住み自然を愛でる人々の気持ちに惹かれたためであり、日本の妖怪や八百万の神が、彼には故国アイルランドの妖精のように思えたのに違いない。
「いたずら子のいる家の畳は、どうなってるか、ですて。それは心配ありません。畳の妖精がいて、しっかり守っています。まあ正確に言えば、昔は妖精がいて、畳を汚くする悪い子どもたちを懲らしめたり、脅かしたりしていた、ということです。この小さな妖精たちが、今も日本にいるかどうか、わかりません。日本に入ってきた鉄道や電信柱に妖精がおびえて逃げてしまったらしいのです。でも、畳の妖精のお話は、今でも残っています。」(日本の民話「ちんちん子袴」池田雅之訳より)
関連書籍
「小泉八雲〜西洋脱出の夢」平川祐弘著/新潮社
「小泉八雲作品集」平井呈一訳/恒文社
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